わたしのオンラインメモ帳

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カテゴリ: 安部公房

これで読み終えるのは4冊目になる。

いままで読んだ3冊は、物語形式の小説?にあたるが、内なる辺境はエッセイという分類らしい。

(安部公房本人が、”ぼくにとっては、エッセイの対象にすぎないユダヤ問題だが...”とあるので、エッセイなのだろう。)

知的レベルが高すぎるのと、噛み砕いてわかりやすく書いてやるぜ!という風にはなっていないので、全体の2,3割程度しか理解できないが、小説のように煙に巻くような感じではなかった。


正統と異端の対比がされる。

パラントロプス(正統・草食・定住型)とアウストラロピテクス(異端・肉食・移動型)という人類学?的な話がある。

生き残ったのは異端の方で、人類の先祖に当たるアウストラロピテクスの方。

非ユダヤ(正統・定着型、農民的)とユダヤ(異端・移動型・都市的)の対比がされる。

パレスチナうんぬんという日本人にはなかなか理解しづらい話だった。

ナチスドイツをはじめ、国家が国民に抱くイメージは、工業化が進んだ現在でも農民的なものという指摘があった。

内なる辺境とはなんぞやということに対しては、最後の方で説明文的なところがある。

”内なる辺境(移動社会)の「異端」にむかって、...”

という記述があった。

内なる辺境とは、移動社会のことであり、正統と異端だと異端の方に分類されるものらしい。

移動社会というのは都市的にあたるもので、国家は農村的なものを支持しているので、対立するものという認識のはず。

具体的に何を意図しているのかは理解できないが、安部公房の主張としては、

”異端の旗をひるがえし、文学に出来ることといえば、せいぜい国家の自家中毒症状を早めてやるくらいのことだ。”とのこと。

安部公房は、全体を通して異端推しのようだった。

ドナルド・キーンさんの解説で、若干理解度は上がった。


4冊目にしてようやく気が付いたのだが、安部公房の巻末には解説がついている。

これはジェネレーションギャップによる当時の状況を知らない人間のために必要なものというよりは、書かれている内容が難しいので当時の人間にも必要になるものだった。

ということは、昔の人の本は一般人には理解できないところが多かったのだと思う。

最近の作品はすべてに説明的すぎるという批判を昔聞いたが、昔の文学作品は読者が理解できないことを前提に書かれている箇所が多すぎるように思う。

他に娯楽がなかった時代ならまだしも、いまの時代に読み終えてわけがわからんとなってしまうものは厳しい立場にあると思う。

ライトすぎるライトノベルはどうかと思うが、説明不足過ぎて狐につままれるようにして終わる文学作品も個人的には問題があると感じた。

面白ければ何でもいいとは思うので、狐につままれても面白いと感じられれば話は別だが、狐につままれてわけがわからんで終わってしまうくらいなら、もう少し現代人向けの1つ2つの疑問は残っても大体は把握できる小説を読んだ方が良いのかもしれない。

壁は、安部公房のなかでは何番目に有名な作品になるのだろう?

1番は中学生でも知っている砂の女になると思うが、もしかすると壁は2番目に有名だったりするのだろうか。

壁は、芥川賞受賞作品。



自分の名前を忘れ、自分の抱いた虚無感で周りのものを自分の中に吸収してしまう主人公。

主人公の行為や存在が、有罪か無罪かを決める裁判が開かれる。

屁理屈の証言や、公平性を持たない裁判官。

ここまで読んで思い出したのが、安部公房はルイス・キャロルに影響を受けたとの情報。

アリスの裁判の日本バージョン的なものをやりたかったのだろうか。



第一部 S・カルマ氏の犯罪 を読み終えた感想は、

わけがわからない。

メタファーが凡人にはまったく理解できないもので、何かを伝えたいというようなものも読み取れなかった...

巻末の解説に期待。

読んで物語のほとんどを把握できるように書かれていない。

これは怪奇小説という分類になるのだろうか???



第二部 バベルの塔の狸 は、

温度感的にはかなりいい感じで、好みの味付けだった。

第一部よりも読みやすくなった原因は、物語上の設定が少なくなっていたことだろうか。

影を食われてしまった主人公。

影がないということは、影を作りだす肉体が存在しないということとなり、原因と結果が逆転し、透明人間になってしまう。

これが1つ目の設定。

2つ目の設定は、透明人間になった主人公が、自分の影を食べた分身の自分にバベルの塔に連れていかれ、歴史的な偉人の分身とやりとりをするところ。

大まかな設定はこの2つくらいなので、話に澱みが少なくて読みやすかった。

第一部は架空の設定とメタファー祭りで、つねに唐突感が付き纏い、読んでいて至る所で詰まってしまい読みづらかった。

カンガルー・ノートも同じような印象を受けた。

主人公がバベルの塔からの脱出を心に決め、動き出す感じは、なんとなく不思議の国のアリスと重なるところがあった。



第三部は短編集?

魔法のチョークは、安部公房のなかではわかりやすめに書かれたおとぎ話のような感じだった。

最後は人肉加工の短編?で締めくくられた。

人肉関連の話は、人間の理性や道徳観等への反発?や挑発するネタとして話題にされがち。

安部公房以外でも、この手の話は何度もみかけたことがある。

最初に見かけたのは、大昔に読んだ藤崎竜さんの短編の漫画だったと思う。

本作では、より挑発的に仕上げるために、胎児の肉がうんたらともあった。

いまだったらこの手の話をするのが許されるのだろうか。


読んだ安部公房の作品はこれで4作目になるが、終わり方もはっきりとせず狐につままれて終わるところはほぼ統一されている。

ハリウッド映画は、バッドエンドだと売れないからという理由で、昨今ではバッドエンドの原作は無理矢理改変されるらしい。

アイアムレジェンドなども原作とはまったく違うエンドに改変されたらしく、見ていてラストの展開にはまったく納得がいかなかった。

(原作のエンドは聞いた話によると、最後に生き残った主人公は、相手側からすると仲間を殺しまくる悪魔だったという視点を変換するようなオチだったはず。)

安部公房の作品は、バッドエンドか意味不明エンドがほとんどなので、いまの世の中だと感性的にしっくりこない作品が多い気がする。

自分が読んでいても、特段心に刺さることはなかった。

メタファーでぼんやりしてしまうし、ネタ振りに対してしっかりと読者にわかるようなアンサーが用意されていない。

私の読解力が足りないからと言われるとどうしようもないが、いまのところどの作品も視界不良という感覚が強い。

細部の文学的表現などにはインテリジェンスを感じるし、読んでいて不快になることもないが、現代の作風に馴染んだ人間の感性からすると、しっくりとこないものが多い。





先日、いまはやっているウマ娘が女性差別にあたるからうんたらという記事を見かけた。

もはやフィクション・創作物ですら、放っておいてはくれない世界になってしまったらしい。

誰も傷つけていない創作物にまでケチをつける個人の投稿が取り上げられる始末。

いろいろなネタが、SNSの反応を過剰に配慮して封印される。

いまの作家さんは大変だと思う。

刺激的な作品を作りたいと思っても、SNSを意識して大問題にならないラインに配慮させられながら作品を作らなければいけない。

揚げ足を取る形で、歴史的にうんたらと重箱の隅をつついてみたり、差別的表現にあたるからうんたらと話題にされる。

創作物くらい放っておけよ...


次はどれを読もうかと、内なる辺境の1ページ目を軽く読んでみると、ナチスドイツの軍服への称賛から始まる。

いまのご時世的だと考えられない。

ナチス体制を称賛しているわけでもなく、軍服から想起されるイメージやデザイン性についての言及だが、

いまならナチス関連というだけで脳死的に不謹慎だからこんなこと書くな!!と片付けられるのだろう。出版されるとは到底思えない。

内なる辺境は、1975年に書かれた本で、

背表紙には、ナチスの軍服が若者の反抗心をくすぐりうんぬんという紹介文がある。

私が知るだけでも、ここ数年で2グループほどのアイドルが、ナチスの軍服と思われる衣装を着て問題になっていた。

彼らが反抗心からナチス軍服的な衣装を選んだとは思えないので、純粋にデザイン性に惹かれたのだと思うが...

戦後直後、被害者が多いなかで、ナチスの話題は出すな!というならわかるが、直接の加害者も被害者もほぼいなくなった現在の方が過敏に反応する不気味な風潮は何なのだろう。

世界の風潮が変わったのは確実だが、これは良い方に変わったと言えるのだろうか...



ひっかかりを感じたので、次は内なる辺境を読むことにした。

パッと見た感じだと、いままでの安倍公房の本は、煙に巻かれて終わってしまう感じだが、内なる辺境はかなり説明文っぽく書かれているので、主義主張がわかりやすくかかれているかもしれない。

その辺に期待して読もう。


読み終えた。

2,3日に分けて読んだが、やはり1冊の本はその日のうちに読み終えた方が良いなと思った。

R62号と比べ、鍵括弧の使い方、1ページ当たりの文字数、行間などが、現代風に変わっていた。

かいわれ大根が脛に生える奇病に襲われた主人公が、病院に行き、混濁する意識のなかで、無意識のうちに聞こえた単語等に連想する夢を数々の見る。

夢と現実が順に描かれるが、夢としか思えないような安楽死クラブ設立準備会を運営する外人が出てくるところが現実パートとして描かれていたり(読み違えていなければこの解釈のはず)と、夢と現実の境界が若干わかりにくい部分がある。

最後に少女と話すシーンも、若者と病院を抜け出すところまでが現実として、自動操舵のベッドが出てくるところから現実ではない世界に切り替わったのだと思うが、その切り替わりがわかりにくく書かれていた。

一貫したテーマがある作品ではなく、3つくらい作者が語りたいテーマがあって、それがくっついて無理やりつながったという印象を受けた。(知らないけど...)

脛にかいわれというのは、実際?の新聞記事の抜粋で、廃駅の校内で脛にカミソリの傷があった死体が見つかったというところから着想したのだと思う。(予想でしかないが...)

安楽死についても語りたいところがあったように思う。

痰が詰まってしまい、細やかな看護がなければ生きられない老人が主人公グループによってあっさり殺害(安楽死)される。

献身的な看護の姿を見て感動するのと同時に、自分がああいう風になってしまったら安楽死させてもらいたいということなのだと思う。

安楽死という概念が不自然な形で作品に出てきて、老人が苦しんでいる姿を数時間見ただけで、安楽死と称し勝手にあっさりと殺してしまう。

直近で安楽死を推進する外人を都合よく登場させ、1日後には彼の手を借りて老人を勝手に安楽死させるというきわめて雑な流れ。

安楽死について自分の考えを語りたいというのがあって、それを実現するために物語の中に安楽死がぶち込まれた感が強い。

この流れから、安部公房が安楽死に対して否定的だとは考えにくい。

カンガルー・ノートが安部公房最後の長編作品という紹介と、キーン氏の解説部分からもわかるとおりで、安部公房が体調が優れなくなってから書かれていることもあり、身近にあった死がテーマになっているような箇所が多かった。

母親の死や、親不孝者うんぬん、安楽死、看護師の献身など。

結局、題名のカンガルー・ノートの意味は説明されなかったし、脛にかいわれ大根が生えた原因も説明がされなかった。

メタファーがあって、自分では読解できなかっただけかと思ったが、解説部分で、キーン氏も理解できない部分が多いらしく、推測で語られている部分も多い。

私のような凡人が読んでも理解不能な箇所が多いのは当たり前らしい。

カンガルー・ノートは、作者が読み手に伝えたい熱意のある主張のようなものはないように思えた。

私にとっては、あまり心に残らない作品になった。



最初にベッドが走り出す夢を見た部分は、知的な言い回しが多いものの内容自体はほぼない心理描写・情景描写が続き、脳細胞が破壊され急激に眠くなった。

夢のパートでも、主人公以外の登場人物がいて会話形式のところは読みやすくはなっていたが、それでも全体を通しての話のつながりが見えず、1つの物語としてすらすらと読めるような作品ではなかった。




安部公房の作品を読むのは3作目になるが、

直近で読んだR62号の発明の主人公は、醜く改造されたあとでも秘書?が自分に好意を抱いていると語るシーンがあり(あったはず)、

カンガルー・ノートでも、脛にかいわれ大根が生えた主人公が、前半に眼鏡の看護婦が自分に気があるだろうという態度を取ったり(後半で外人が出てきてからは自信を失った様子だったが)、若いたれ目の子を抱いてやろうかと思ってみたり、

砂の女でも、容姿の悪い主人公が砂の女を抱いたりと、

その手の表現が3連続で続いている。

共通点としては、醜い主人公が、自己愛が強いのか?、相手の女性が自分に好意を抱いていると考えるシーンがある。

R62号の発明・鉛の卵で登場する人物たちの名前はK(公房のK??)だし、カンガルー・ノートの主人公はキーン氏によると主人公の投影だろうとのこと。

そう考えると、安部公房の投影たちが、相手の女性が自分に好意を抱いていると感じれる自信過剰な人間という設定は、安部公房がそういう風に感じてしまう人間なのか、そういう性癖なのか、ということなのだろうか。

もしくは、洋画でこのシーンいるか??という不自然なベッドシーンが、商業目的で無理やりぶち込まれているが、1作品に1エロは入れろ!というようなルール的なものが当時あったのだろうか??

今後の作品でも、主人公たちが相手の女性が自分に好意を抱いているような描写があるのか注目しておこう。



今回で傷んだ本は読み終えたので、次に何を読むかは決めていない。

最後にもう一度砂の女は読むとして、次は壁か他人の顔か笑う月を読もうかな。

箱男も気になるが、なんとなくカンガルー・ノート的な感じの作品を続けて読みたくはないので、一旦硬そうな題名の方を先に読もう。

(砂の女以外の作品の内容は知らない状態なので、硬そうな題名で中身はカンガルー・ノートみたいなか可能性もあるが...)



追記)

タイトルが気になっていた笑う月だが、背表紙の紹介文を見ると、夢関連の短編集っぽく、カンガルー・ノート感があるかもしれないので、後回しにすることにした。

読み終えた。

まずは傷んでいる本から読むことにしたので、この本を選んだ。

1ページ目を読んだときに、まず感じたのが表現の豊かさ。

社会学、心理学、雑学系の硬い本は定期的には読んでいたが、文学作品と分類されるものを読むのは人間失格以来になる。

安部公房の本は砂の女しか読んだことがないので、どのような温度感の作品なのかもわからないまま読んだ。

安部公房の特徴になるのか、短編集の特徴になるのかはわからないが、世界観を把握し終えた頃にはその物語が終わってしまうのが苦しい。

この人物ならこうするだろう...というような感覚を得ないままに終わってしまう。

しかもほぼすべてがバッドエンドで気が沈むものも多かった。

とくに、変形の記憶と死んだ娘が歌ったがきつかった。

一番心に残ってしまったのは変形の記憶。

戦争という大きな体験をした人間と戦後の人間では価値観に大きな差が出るのだろう。

身近なところに残酷な死があり、多数の死に関わりを持ってしまうことにより、命への価値感も相対的に下がってしまう。

ただでさえ命の価値が相対的に低いのに、軍が絡むことによってさらに命の価値が下がっていて、救いのない話になってしまうのがきつかった。

他の作品は狐につままれるような終わり方をするものが多いのに、変形の記憶のような鬱な話に限ってストーリー展開がわかりやすくされていて、嫌な後味が印象深く残ってしまった。

死んだ娘が歌ったは、実の娘の人身売買が気軽に行われていた当時の価値観がわかるのがきつい。

鏡と呼子、鉛の卵くらいの温度感は読みやすかった。

鏡と呼子は先が気になる感じで面白かったが、猜疑心をテーマにしているためか、わざとわかりにくく書かれているためか、全体像がぼんやりとしたままで、各登場人物の本当の目的が私の読解力では読み解けないまま終了してしまった。

巻末の解説も面白かった。

文学部ではこのようなやり取りがされていたとするなら、文学部は楽しそうだ。

ただ、作者の政治的思想やらを知ったうえで作品を評価するのと、作品だけを見てその作品をどう考えるかでは話が変わってくる。

文学部はどちらのスタンスなのだろうか。


万能翻訳機という概念が出てきたのには驚いた。

ドラえもん(あまり見たことはないが)で擦られまくっていそうなネタだが、最初に使ったのは誰なのだろう。

バベルの塔の逆パターンになる概念なので、相当昔からありそうなネタな気はするが。


いまなら全12話になりそうなネタフリをしつつ、一瞬で終わらせる短編集だった。

よほど発想の宝庫なのか、ネタを出し惜しみしている感じがなく、間延びがないので濃密。

ただ、鏡と呼子は2,3倍の長さにしてもらって、もう少し細部まで説明してもらえた方がちょうどよかったと感じる作品もいくつかあった。



次に読むタイトルは、カンガルーノート。

理由は、この本が次に傷んでいるから。

気に入ったら新品を買いたいので、気に入るかどうかを早めに把握したい。

変形の記憶と死んだ娘が歌ったを読み終えたあたりで鬱になり、他の作品を読んでも大丈夫だろうか?と思ったが、その後の短編は心を抉ってくる類のものがなかったので問題なかった。

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